白銀の竜
2mを超えるアトランティックターポンは、その巨体を激しくうねらせ、水面をさく裂させた。その様子は、まさに白銀の昇竜の如し。
私は敢えてドラグを弱めに調整した。先ずは主導権をターポンに持たせ、泳がせて体力を消耗させようという作戦だ。100mほどラインが放出された時だった、勝負時とみて一気に引き寄せようとした瞬間、けたたましいエンジン音が響いた。『船長!船を魚に寄せてくれ!!ボートが猛スピードで突っ込んでくるぞ!』
私は咄嗟に叫んだが、船長は全く動こうとせず鼻毛の手入れを勤しんでいる。
次の瞬間、猛スピードでモーターボートが私とターポンの間をすり抜けた。
ふっとテンションが抜け、PEラインと船長の鼻毛がコスタリカの美しい海に吹く風に空しくなびいた。
私は暫く呆然と立ち尽くしたが、その後、船長に対して沸々と湧き上がる怒りを必死にこらえていた。
アトランティックターポン(学名: Megalops atlanticus)
シルバーキングの異名を持つアトランティックターポン。稚魚の形態がレプトケファレス幼生を経て成魚となる。口が大きく上向きで、下顎には延長された骨板が含まれている等の特徴を持ち、大昔よりその形状が変わっていないことから生きた化石や古代魚と称される。非常に大型化する魚で記録として250㎝の全長160㎏との記録もあり、全世界的に非常に人気のあるゲームフィッシィングの対象魚とされている。
一方こちらは日本の南西諸島にも生息するパシフィックターポン。40㎝程がアベレージサイズと小柄だが最高のゲームフィッシングを演出するファイトを魅せてくれる。
ターポン釣りの小さな街パリスミーナ
私はコスタリカ東部のカリブ海に面した街パリスミーナを訪れていた。人口は500名程のとても小さな街。主要産業はターポン釣りをメインとした観光産業である。街中に湿地が多く、夜間は無数の蚊が飛び交うが、日中の街の雰囲気は全てがカリビアン。停泊する大型船、街並、そこに住む人々の全てが陽気なカリビアンの雰囲気を醸しだしている。
この国コスタリカは自然と共存し、そして自然を利用した観光立国として成り立っている。国土に豊かに残った大自然から、大量のミネラルが河川を通じて海に流れ込み、それを目当てにプランクトンや餌を求めた小魚が集まり、その小魚を目当てに大型魚が集まる。河口付近においても素晴らしい生態系が確立しており、その自然の恵みを我々釣り人や村人も享受している。
停泊するタグボートも以前は木材を伐採し、運搬のために利用されていたようだが、コスタリカ全体が益々の自然保護に動いている最中、森林の伐採は減少し、現在は活躍の場所がなさそうである。
そして、もはや廃材にしか見えない船と奥に見える小屋が私の宿泊所。この場所で2晩の寝泊まりになる。
夜間、湿地に囲まれる宿泊所に訪れる1.5m程のワニ達。ベッドで待ち構える無数のダニ。
そして、飛び続ける蚊の大群から全身に被弾する以外は快適で最恐のホスピタリティ。
出港
今回の釣行の予定は、到着した日の午後と翌日1日を合わせた1日半と限られた時間。早速、荷物をまとめると船に乗り込んだ。河口では地元の釣り人達が海に立ちこみ、沖に向かってキャストを繰り返している。我々のボートは彼らの間をすり抜けると、スピードを一気に上げ沖の潮目へ走った。船長はおもむろにサビキの付いた小物用竿を私に渡した。先ずは泳がせ釣りの餌を確保。次々と竿が小刻みに揺れ、あっという間に生餌となるコノシロを確保した。
再び河口近郊へ船を戻し、生け簀からコノシロを取り出すと、鼻に針を掛け海に投げ込む。時折、ターポンらしき大きな魚影やイルカと思われる背びれが水面を割って姿をみせてくれている。コノシロを投げ込んで10分経っただろうか。ドラグが鳴り一気にラインがリールから流れ出たかと思うと、遥か50m先に水面を割って大きなターポンがジャンプした。幸先が良い!
寄せては強烈なスピードでラインが出され、強烈な鰓払いの連続。凄まじいやり取りを制し、船際にターポンを寄せた。口元にギャフをかけターポンを船長に託した。
私がカメラを構えようとしたその瞬間、ターポンは最後の力を振り絞るように暴れ、ギャフを自ら外して海に帰って行った。もっとしっかりギャフを持っていてくれたら…と、グチグチ言いたい気持ちに襲われたが、その時はまだ一投目。焦りもなく、まぁ良いか….と気持ちを切り替えることができた。
だが、その後は…何度もバイトはあるものの、水面に姿をみせたのはターポンではなく、スヌークとジャックのみ。一投目のターポンへの思いが蘇り、その日は眠れない夜を迎えることとなる。
ジャック。芳名:ムナグロアジ
1mを超えるスヌーク。このスヌークでさえ今回は外道。
とにかくジャックとバラクーダが延々と釣れまくる。
翌日もスヌーク、ジャックそしてバラクーダの猛攻に逢いながら、ひたすら本命からのあたりを待つこととなった。昼食を終え船長はやけに眠そうだ。やる気があるのかさえ疑うほどだ。鼻毛の手入れをしている。
そんな船長を横目で見ていると、竿が大きく曲がりクリッカーが鳴った!!
来た!!ジャンプするその姿は2mを超えていた。残った時間は半日。これは慎重にやり取りした方がと冷静を装いドラグを緩めにし、ターポンとの距離をとった。
その瞬間….冒頭の悲劇が訪れたのである。
この悲劇の後、何も起こることはなく、空しく夕日が沈み始めた。涙で霞むサンセットが心に刻まれた。本来であれば、明日の早朝にはこの街を出る予定であったが、このまま手ぶらで帰国の途に就くわけにもいかず、なんとか明日の午前中だけでも出船できないかと船長に懇願した。
渋い顔をしながら了承した船長…今まで我慢していた怒りが露わになりそうだったが、私はそれをぐぐぐっと飲み込んだ。
最後のチャンス。
餌となるコノシロを既に確保してある。準備万端だ。早速ポイントに入り、投げ込んだ一投目。竿が引き込まれたと同時に、50m先に朝日に輝く白銀の鱗が、美しく舞い上がった。船長も今回は舵をしっかり握り、魚との距離を一定に保ってくれている。
暫くターポンと私のやり取りが続き、タイミングを図りながら一気に勝負にでる。15分後、ターポンを船際に寄せた。
船際でターポンの細部の写真を撮り、感極まった私は海に飛び込み、そして白銀の竜をこの手に抱いた。
下顎には延長された骨板が含まれている。
シルバーキングの名の通りまさに白銀の鎧だ。
帰路への時間まであと僅かだった。最後の最後にチャンスをものにすることができたのだ。あれだけ険悪な関係になりかけていた船長だったが、感謝の思いを込めて船長を強く抱きしめた。
香しい屈強な海の男の香りがした。
再びこの街を訪れた時には、巨大ターポンを難なく釣り上げ、抱きしめるのは魚だけにしたいものである。